ベトナム戦争における混血児は南京事件などでの日本軍の性暴力を否定しません

南京事件などでの日本軍の性暴力問題に対し、ベトナム戦争で韓国軍兵士による性暴力があったこととベトナムに韓国人との混血児がいることを持ち出してくる人がいます。
要は、ベトナム戦争で韓国軍兵士とベトナム人の混血児が生まれたことを、性暴力と混血児の誕生に因果関係があることを示す事例とし、南京事件などでは日本軍兵士との混血児が生まれたことが知られていないことをもって、日本軍の性暴力を否定しようというわけです。
結論から述べれば、それで日本軍の性暴力を否定するのは無理です。
なぜならば、そもそもベトナム戦争における混血児を性暴力によるものとするのがデマと言っていいものですし、そこに関わる人間の意志と能力を無視して性暴力と混血児の誕生を結びつけるのも無茶だからです。

1.ベトナム戦争における混血児を性暴力によるものとするのがデマと言っていいもの

ベトナム戦争での混血児というと、アメラジアンのことがあまり知られていないためか、ネットの日本語圏では韓国系混血児ばかりが取りざたされる傾向があるようです。
それによる誤解を防ぐためにもベトナム戦争における混血児の問題にふれるにあたってアメラジアンの説明から入りたいと思います。


米軍は戦争など軍事的な必要性からアジアの各地に駐留し、米軍に所属する人々の中には駐留先で現地妻をつくるような人がいて、その結果混血児が生まれることがあります。
アメリカではそのようにして生まれたアメリカ人とアジア人の混血児をアメラジアン(Amerasian)と言います。
ベトナム戦争においては南ベトナムでそのような混血児が多数生まれました。

混血の少女ミイ

ホテルの玄関の前に毎朝かならずやってくる少女がいた。腰で支えた小さなザルに、袋入りのピーナツがいくつも載っている。そして、少女が米兵との混血児(コンライ)であるということは、誰にもひと目でわかってしまう。瞳がかすかに碧いのだ。
ホーチミン市のクーロン(九竜=メコン川のこと)・ホテルは、以前はマジェスティクと呼ばれた高級ホテルだった。解放後もその風格は残していて、外国人客の宿泊が多い。私が地方での取材を終え、汗と泥にまみれてホーチミンヘ戻ってきた時でも、たいていは、その子がホテルの前にたたずんでいるのだった。
「名前はなんていうの?」
「ミイ(美=アメリカの意)よ。みんながそう呼ぶの。ひと袋買ってね」
「お父さんは?」
「知らない。でも名前は“マイケル”だって聞いてるわ。お母さんから」
一〇歳を越えたばかりのミイは、話しながら私の手にピーナツを押しこむ。
「一ドンちょうだい」
ひと袋に一五粒ほどしか入っていない皮つきピーナツは塩の味が強い。一日に四〇袋も売れないと商売にならないという。
毎日ひと袋ずつ、かならずミイから買うよ、と私は約束した。幼いミイの、そばかすだらけの顔に出会わないと、その後の私は落ちつかぬ思いさえするようになった。
ドンコイ通りの北端にあるサイゴン大教会では、クリスマスを前にした飾りつけが進んでいた。イヴになると一〇〇万ともいわれる人びとが街にくり出して、夜更けまでそぞろ歩く。かつてベトナムで戦った米兵たち四名が、アメリカの帰還兵団休VVA(復員軍人協会)の代表としてホーチミン市にやって来だのは、ちょうどその頃のことだった。
いつものようにホテルの前にいたミイは、それを知って顔を輝かせた。彼女は妹のリイも弟のタイも連れて、玄関前で待つようにたった。「何故かはわからぬがアメリカ人がまた来ている」――そんなうわさがミイたちの口から街に流れたようだった。ホテルの前に立つ混血の子どもたちの数が増える。
あるとき、ミイは、このアメリカ人たちと口をきくことについに成功する。ほとんど忘れかけていた英語が彼らの会話を立ち間きしているうちに突然スラスラと出るようになったらしい。
「私のお父さんはマイケルよ、誰か知らない?!」
ミイは、見上げるようにしながらひとりの男に話しかけた。彼は目を丸くしながら、いたずらそうな顔付きで後の仲間をふり返った。
「お前だろう!」
「いや、俺じゃない。とんでもないよ」
彼の名も、マイケルだった。マイケルは仲間たちにからかわれ続けながらも、ミイの前にすわり、手をとってやさしく話しかけた。ミイはマイケルからガムをもらって、充分に満足したようだった。
行方不明アメリカ兵の調査と枯葉剤の被害調査を目的にやってきた彼らのホーチミン市滞在は短かった。
二目めの朝、空港へ向かう一行がホテルの前に用意されたマイクロバスにのりこんだときだった。ミイたちの兄妹が遠くから走ってくる姿がみえた。子どもたちはバスをとりまいて、口ぐちに何かを叫んだ。マイケルたちは窓をあけて手を伸ばした。子どもたちはバスのボディをバンバンとたたきながら、アメリカ人たちの手にすがった。車内から、両手いっぱいのガムがさし出されてくる。車はゆっくりと動き出す。子どもたちも走る。車は加速をつけて走り去った。ミイもタイもリイも、手にガムを握りしめたまま、車の去った方角を見つめて立っていた。
いちばん年下のリイの目に大粒の涙がうかぶ。リイは手の中のガムを抛り出し、声をあげて泣きはじめた。長女のミイだけは濡れた目を見開いたまま、こらえていた。
誰もが胸をしめつけられる思いでいながら、誰にも何もできないという虚しさだけがあった。それが人びとの心をいっそう重いものにしたようだった。
リイはいつまでも泣くのをやめようとはしなかった。
ベトナムの戦争孤児は七〇万人。アメリカ兵、オーストラリア兵、韓国兵などが遺した混血児は二〇万人ともいわれている。


母は枯葉剤を浴びた―ダイオキシンの傷あと (岩波現代文庫)」P187-194より。
ベトナム戦争では米兵による性暴力の記録が多数ありますし、ベトナムでは多数の米兵との混血児が生まれました。しかし、それは性暴力と混血児の誕生の因果関係を示すものではありません。なぜならば、そういう混血児は主に後方で過ごしていた軍人や軍属と現地妻の間に生まれたものだからです。
ベトナム戦争に参戦した各国の軍人や軍属にはローテーションで後方での休養が与えられましたし、もとから後方勤務の者もいました。
そのようにして後方で過ごす軍人や軍属の中にはベトナム人の現地妻を持つ者もいました。その結果、南ベトナムでは多数の混血児(コンライ=Con Lai。Con=子供、Lai=混血)が生まれました。
それらの混血児の内、アメリカ人との混血児はミライ(My Lai。My=美=アメリカ)と呼ばれ、韓国人との混血児はライタイハン(Lai Daihan。Daihan=大韓=韓国)と呼ばれました。
引用文中に登場するミイ達もおそらくそのようにして生まれたアメリカ人とベトナム人の混血児です。父親の名前を知っていたり父親の言語を話せたりすることが高い蓋然性でそのことを示しています。
そうした子供たちは南ベトナムからの米韓豪連合軍の撤退によりベトナムに取り残されベトナム社会で「敵の子」として迫害されました*1。父親に置き去りにされた彼らはストリートチルドレンになることもありました。
アメリカ政府はそうした混血児に対しアメリカに呼び寄せる努力をしました。
http://www.asian-nation.org/amerasians.shtml
によると、1989年に履行されたアメラジアン帰還法によりおよそ25000人のベトナムアメラジアンアメリカに渡っています。彼らの76パーセントが実の父親に会うことを望みましたが、父親の名前を知っていたのは30パーセントだけで、実際に父親に会えたのは僅か3パーセントに過ぎませんでした。
オハイオ州立大学の調査によると、ベトナムアメラジアンの人数は77000人に達します。


ライタイハンを「レイプによる大量出産」の事例として「性暴力と混血児の因果の証」としたがる人々がその根拠として持ち出す釜山日報の記事
http://www.busanilbo.com/news2000/html/2004/0918/051G20040918.1009094544.html
によると、この記事の時点(2004年)において韓国政府はアメリカ政府が行ったような対応を取っていません。
この記事によるとライタイハンの人数は推算で5000人から30000人とされています。
しかしながら、この記事でライタイハンを「レイプによる大量出産」の事例とするのには無理があります。

ライタイハン問題は韓国人たちがベトナム戦争の期間及び特に1975年のベトナムの共産化後にベトナム人の「妻」と子供たちを捨てて無責任に韓国へ帰国したことに始まる。

というように翻訳して読んでみた限り、この記事ではライタイハンは現地妻の子として扱われています。
また、この記事を翻訳して読むと、

1992年の韓国とベトナムの修交以後、両国間で経済的及び人的交流が増大される過程で「新ライタイハン」が生まれている。彼らは事業上ベトナムに長期的に行っている韓国人たちと現地妻の間で生まれた混血二世たちだ。韓国人たちがベトナムを撤収する際、現地妻と子供を捨てることが問題になっている。ベトナム戦争で見せた韓国人たちの姿が繰り返されている。

という記述もありますが、これもライタイハンが韓国人とベトナム人現地妻との子をさす言葉として扱われていることを示しています。
この記事を「レイプによる大量出産」の事例の根拠として扱うのは明らかにおかしいというものでしょう。


先に述べたようにベトナム戦争における混血児の問題は古来よりの「駐留軍と現地妻」の問題なわけです。
混血児の誕生は結婚から性暴力までのあらゆる結果でありえますが、ベトナム戦争においての主要因は現地妻との間に生まれた子供であり、ベトナム戦争における混血児を性暴力によるものとするのはデマと言っていいものです。デマと断言しないのは性暴力による混血児は絶無とは言えないからというだけのことです。


そして、そういう「駐留軍と現地妻」の問題は現代の沖縄でも繰り返され続けている問題でもあります。アメラジアンは現代の沖縄でも生まれ続けているのですから。
これは別に米兵との自由恋愛を否定するわけではありません。自由恋愛は大いに結構です。
そういう自由恋愛の観点からは皇室と米兵が姻戚関係になって、結果として混血児が天皇になるようなことになってもいいというものでしょう。
また、米兵と自由恋愛の末に結婚しても結局離婚して親権問題が発生するなど、望ましくない自由恋愛の結果を問題にしているわけでもありません。
問題は沖縄に米軍基地が集中していることと、その沖縄が経済的に貧しく貧困が現地妻になることを後押しする蓋然性が高いことによる構造的問題です。

2.そこに関わる人間の意志と能力を無視して性暴力と混血児の誕生を結びつけるのは無茶

性暴力と混血児の誕生を単純に結びつけることはできません。なぜならば、妊娠と出産の間には人間の意思と能力が関係するからです。性暴力で妊娠しても中絶することができれば子供は生まれません。
ソ連満州侵攻時のソ連兵による日本人女性に対する性暴力は、性暴力があっても混血児が生まれなかった例というものでしょう。仮に性暴力と混血児の誕生に因果関係があるならば、性暴力によるロシア人との混血児が日本に多数生まれていなければならないことになります。そうならなかったことが、性暴力と混血児の誕生を単純に結びつけることができないことを示しています。
それは性暴力による妊娠が皆無だったということではありません。それは「性暴力など望まない要因で妊娠した場合、状況が許せば生まれる前に堕胎することが選択される」ということを高い蓋然性で示しているというものでしょう。


以上のことから、日本軍の性暴力による混血児の存在が知られていないことをもって日本軍の性暴力を否定することは無理です。

追記(2013/09/22)

それと、この証言についてですが、伝聞であることを差し引く必要がありますが、この証言はベトナムの韓国系混血児(ライタイハン)の母親が韓国兵の現地妻であることを裏づけるものでもあると思います。性暴力による関係で「戦争が終わって,韓国に行きたいというベトナム人が大勢いた」というようなことがありうるでしょうか。この証言は混血児の誕生が親密な長期的関係の結果であることを示しているというものでしょう。
そして、この証言を信じるかぎりにおいて、混血児問題でまず責められるべきなのは、現地妻と混血児の入国を拒んだ当時の韓国政府というものです。

ベトナム戦争での韓国軍 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

この記事の補足として2010年2月18日に上げた記事からの引用です。コメント欄の伸びによりトラックバック欄が遥か下に押しやられこの記事から直接たどりにくくなっていることから引用とリンクを追記することにしました。

*1:私はこういう話にドイツに侵略された地域のドイツ系混血児の第二次世界大戦後の運命のことを連想してしまいます。