非難されているのは現実主義ではなく現状追認主義

* - REVの日記 @はてなに対して。
分かっていて皮肉っているとは思うのですが、非難されているのは現実主義ではなく現状追認主義であり、現状追認主義が現実主義を騙っていることです。現実主義そのものが非難されているわけではありません。
目の前の現状を「既成事実」として追認し、問題に対して屈服する態度は現実主義ではないでしょうという話。
現実主義というのは問題解決に当たって現実的な方法で対処する態度であって問題を黙認することではありません。(手の打ちようがないので黙認することまで否定しませんが)
現実主義は諸々の問題に対して妥協を迫られるわけですが、妥協するのは問題そのものに対してではなく、問題解決にあたっての現実と理想の較差に対してというもの。
「現実を見よ」というのは当然の話であって、その現実に対して対応することを非難し、現実の問題構造の維持に与するがゆえに(「現実主義」と騙る)現状追認主義が非難されるわけです。


現状追認主義の問題は他にもあって、それは理想を語る人間を現実を見ない人間と看做す決めつけです。
理想を語る人間が現実を見ないわけがありません。現実を見て現実の問題を把握しているからこそ、その現実を変化させる案として理想を提示するわけです。(もっとも、その案自体や案に近づく方法に問題があることが往々にしてあるわけですが)
理想を語る人間は大体において理想や正義や善意がこの世に地獄を作り出してきたことなど百も承知です。(フランス革命とそれに続く粛清の嵐のように、理想の部分的実現例としての近代民主主義ですら血生臭い歴史の上にあります)
だからこそ、そういう話をあらためて説教されることにうんざりするわけです。
で、そういう話により現状追認主義が何を正当化しているかといえば、現実の問題に対して屈服し問題の構造を維持し続けることなわけです。


現実というか人間の所業は知れば知るほどどうしようもないもので、そういう現実に対し絶望に身をゆだね諦め投げ出す方が遥かに容易。現実に心を折られ、そういう方向に人が流されるのも仕方がないことと思います。
それでも、諦めない、投げ出さない。自らの力が例え蟷螂の斧に過ぎずとも持てる力で現実に対して抗う方法を模索し足掻き続けるのが本当の現実主義というものであり、そのようにして人々が現実に対して屈服することを拒否し続けてきた結果の積み重ねが政治や統治といった分野での人の進歩の歴史というものなのではないでしょうか。(理想の失敗例も数多くあれど、近代民主主義国家における人の暮らしは理想の部分的実現の上にあるわけです)
現実に対する屈服であり思考停止である現状追認主義を「キレイゴトの理想論」よりも「危険」なものとする元記事(理想論でもキレイゴトでも嘘でも建前でもいいじゃない ( 事件 ) - 虎ときどき牛(奥の間) - Yahoo!ブログ)の判断は相応の正当性があるものというものです。