社会心理学的技術による思想改造

マインドコントロールを扱っている本には色々ありますが、その中から私が初心者向けに一冊を選ぶとすれば「マインド・コントロールとは何か」になります。
この手の知識を扱っている本としては安価で、人間の認識構造を利用した社会心理学的技術による思想改造の手法の実態について書いてあるだけではなく、チャルディーニの「影響力の武器」、ミルグラム実験スタンフォード実験、帰属過程、集合的無知など社会心理学的知識の総集編としても優れているからです。

状況の拘束力

状況の拘束力を利用する

特定の状況は本当に個人の意思決定や行動を拘束するのだろうか。たとえば、ある社会的事件が私たちの前に表面化するとき、人は一般に、その事件の原因と責任をそこに介在する重要な人物の性格や動機などの素質的な要因に求めてしまう傾向にある。これは第3章において説明した、ロスが指摘した「基本的錯誤帰属」という現象である。こうした傾向が、人びとに事件の真相に潜む、重大な別の原因を気づかせなかったり、その原因を軽視させたりすることがよくある。
たとえば、古くは天変地異の原因を「魔女の呪い」と決めつけたり、戦時中の大虐殺の原因は、ナチや日本兵には格別に残忍な性格があったとされたりする。あるいは、学校でのいじめ事件で自殺者などが出ると、すぐに、いじめることを何とも思わない冷酷で非情な性格をした「犯人」を探し始めようとする。同様に、破壊的カルトという非合法的、非道徳的な活動を目にすると、すぐさまその組織のメンバーの生育歴などをたどって、そのどこかに事件につながりそうな個人的素質をみつけようと、一部のマスコミが先頭に立って躍起になる。
しかし、そこには満足のいく原因究明の証拠が用意されていないことが多い。多くの人は少し考えれば気づくのだけれど、日頃無視している影響の源が存在する。
そもそも人間の行動というものは、檻や牢獄の中であったり、病気であったりしない限り、個人がそれぞれの自由な意志にもとづいておこなっている、というふうに考えていることが多い。
しかし社会心理学では、そうは考えない。すなわち人間の行動は、自由意志の源泉とでもいうべき、個人の趣味や趣向、癖、欲求、能力、性格といった素質だけで決定されているのではなくて、そうした素質的要因のはたらきがある方向へと行動を導くのと同時に、他者や社会から明らかな、あるいは気づきにくい形で、ある方向へと行動を導こうとするなんらかの別の要求があるとみなす。要するに「状況の力」というものが、個人の行動に常に作用しているのである。天変地異などは、いうまでもなく自然の力だけで生じる現象であり、いじめ事件や殺人事件などのような社会的な現象であっても、この状況の力を見なくては片手落ちといえる。つまり、行動の主体者は何らかの環境からの影響を受けている。もちろん、その影響力の規模は時と場合によって変わるが、個人をある特定の行動へと自動的に導く原動力がある。
たとえば、人は一般に、カッとして本気で相手に暴力をふるいたいという衝動にかられても、相手からの報復やトラブルの懸念、後から罰せられる可能性などが、実際には暴力をふるわない方向へと行動を拘束する。つまり、これは個人的な欲求を、状況のもつ影響力で抑制させられたということになる。
また、バスや電車で先に乗ってすわっている人に対して、自分がすわりたいから席をゆずれと、何人の人が要求するであろうか。そういうことは、なかなか実行しにくいものである。またそれから、ファースト・フード店で「メニューはこちらにもございます」と手招きされたり、デパートでまだ買う意志も定まっていないのに「どういったものをお探しですか」といわれて、何かを買わねばならない気になるとか、あるいは早急に立ち去らねばならないとかいった気分になるといったことはないだろうか。
それぞれの状況に存在するこのような暗黙の拘束力は、個人が行動するあらゆる場において、明らかにはたらいているし、その影響力をうまく利用すれば、ときとしてかなり強力にもなる、他者の行動統制の「武器」となりうる。このような特定の状況に対する個人の固定化された自動的反応を引き出そうとするのが、一時的マインド・コントロールである。
つまり、それは個人が行動する場所や時間が変わると、影響力の持続しないコントロールである。これは、優秀なセールスマンが多用する方法であったり、プロパガンダの常套手段であるともいえる点が多い。しかし、破壊的カルトもまたこの影響力を駆使して、とにかく、まず自分たちの主張を聞かせるチャンスをつくろうとする。この過程は、引き続いておこなう永続的なマインド・コントロールヘとつなぐための、重要な第一歩となる、一時的マインド・コントロールである。

マインド・コントロールとは何かP85-87より。
人に望みの行動を取らせたいとき、相手が自分で考えてそういう行動をするような状況を作り出すというのは、非常に古典的な手法です。*1
そういう状況に対する人間の自動的反応を利用すれば、(高い可能性で)相手を自分の自由意志で考えていると思わせつつ望みの方向に誘導できるわけです。
人の行動はその人が置かれた状況に大きく支配されてしまうのです。

認知的不協和理論

認知的不協和の理論

一般に人は、正しいと思っていることや、好きなことにしたがって行動をすると思っているかもしれない。しかし逆に、行動することが正しいことになったり、好きになったりしていることをあまり認識していないであろう。しかし、社会心理学では、前者よりも後者のほうがよく起こりうることを確かめてきている。つまり行動することが、内面の認知や感情を変化させる。このような認知・感情・行動の関係を説明するのが、「認知的不協和理論(cognitive dissonance theory)」である。
この認知的不協和理論は、社会心理学においてもっとも多用されてきた代表的理論であり、一九五七年にフェスティンガーという人によって提唱された。フェスティンガーによれば、人は、知識、意見、信念などの認知要素のうちの二つが心理学的に不一致、矛盾しているとき、緊張を経験するという。そのとき、人はその緊張を低減させて自己の考えを適応させようとする。これが、この理論の基本的な原理である。つまり、一言でいえば、人間は自分自身の内部に矛盾がないように努力する、というわけだ。

同書P115より。
人は自らの内面に従って行動していると認識しがちですが、自らの内面にそむいた行動を取った場合、その行動に対して感じるストレスを低減させるために自らの内面の方を変えてしまうことがあります。
自らの内面にそむいた行動を自らの内面を変化させることで自らの内面に従った行動と認識するようになることにより、もとは自らの内面にそむいていた行動をすることに抵抗を感じなくなっていくわけです。
そういう人の内面と行動の関係を説明するのが認知的不協和理論であり、永続的な思想改造において重要な理論です。

不協和の低減の仕方

フェスティンガーによれば、不協和の低減の仕方にも、いくつかあるとしている。それには、大きく三つの種類があると述べている。
まず第一には、行動に関する認知要素を変えるというやり方である。わかりやすい例をいえば、ある人が予知された災難を信じて家を出なかったのに、何も起きなかった。それで考え直し、計画を変更して仕事などに出かけた。あるいは、タパコが健康によくないことをテレビや本などで知った人が、その後、タバコをやめてしまった。つまり、あることを知ったことで行動を変える。こうしたことが、この例に入るだろう。
ある人が、ある破壊的カルトの予言が正しいと信じたから入会する。あるいは、カルトのメンバーが、その予言は誤りであると信じたので脱会する。このようなきわめて合理的な行動パターンがこの低減の仕方の例だ。しかし、人の不協和低減は、なかなかこのように単純明快にはいかないのが常である。いま述べた第一の方法と異なり、以下のような第二、第三の仕方がある。
その第二は、環境に関する認知要素を変えるという仕方である。この仕方を用いた不協和の低減の例を「イソップ童話」からあげてみよう。あるキツネは、とある場所でよく熟れておいしそうなブドウがなっているのに気がついた。しかし、その位置が高いところにあるので、なんどジャンプを試みても届かなかった。最後にそのキツネは、「あのブドウはすっぱいのさ」といって立ち去った。つまり、「うまそうなブドウ」を「すっぱいブドウ」へというように、環境に関する認知を変えて不協和を解消したということになるのである。あるいは、ある災難の予言を信じて家に避難していた人が、その予言は正しくなかったと信じなおすこともこれにあたるだろう。
われわれからみると、ある宗教を装った破壊的カルトの予言が明らかにはずれているように見えても、内部のメンバーは、予言は的中してはずれたことがないと主張することが多い。その理由は、彼らはわれわれが認めないようなささいな事件を、予言にあったことと解釈するからである。特に、その予言が期日や規模などにおいてあいまいな表現でなされているときには、こうしたやり方での不協和の低減が簡単に起こるだろう。
そして第三の仕方が、新しい認知要素を付加するというものである。このやり方についても、例をあげてみよう。ある人が、タバコをすうことが健康を害するということに関連するある認知と、自分がタバコをすいつづけているという行動に関する認知とのあいだに不協和が起こった場合、人は不協和を低減させるような新しい情報を積極的に探し求め、それと同時に、既存の不協和を増大させるような新しい情報を回避しようとする。その結果、その人は、タバコが健康に有害であるという見解に批判的な情報を探しだすことによって、不協和を低減するのである。なぜなら、タバコが健康に有害であるという見解に批判的なその情報は、タバコをすっているという行動と協和関係にある。つまり、この新しい協和関係をつくる認知要素を付加することで、不協和関係にある認知と協和関係にある認知のバランスをとるというやり方である。
破壊的カルトは、この第三の理屈でもって、予言がはずれたり、約束反故の事態になったときの急場をのりきることが多い。たとえば、「われわれの祈りが神に通じた」あるいは「自分たちのメンバーの努力が足りないところに約束反故の原因がある」などの説明を新たに付加するのである。

P122-124より。
第三の仕方は「人は見たいものしか見ない、見ようとしない、見たいようにしか見ない、信じたいものしか信じない」といった人の愚かさの表現でしばしば出てくる仕方です。
人は認知的不協和を経験することを不快に思い、その不快を避けるために、自らの信ずるところに対して批判的な情報やその情報源に接近することを避けることがあります。そして自らの信ずるところを肯定する情報にだけ積極的に近づき、より「信仰」を強固にしていくのです。
この第三の仕方の例としては、南京事件否定論者など歴史修正主義者にトンデモ否定本などの本を薦めても読もうともしないどころか、ネット上の情報を引いて読みもせずにその本を非難したりする現象が挙げられるでしょう。

行動が人を作り変える

アイデンティティの剥奪とロール・プレイ

ところで、この理論の文脈でとらえることできる研究で、マインド・コントロールの理解にとって興味深い実験がスタンフォード大学の地下実験室でおこなわれた。ジンバルドーがおこなったその実験は、つぎのようなものであった。
まず、できるだけ健全な学生二一人を被験者として集めた。この実験では、コイン・トスで囚人の役割と看守の役割をする者に分けられ、二週間、大学に造られた模擬刑務所でそれぞれの役割を演じるというものであった。囚人の役割を割り当てられた人びとは、実験が始まるその日に、実験への協力を依頼された市の警察官によって逮捕された。そして彼らは警察署に連行され、囚人服を着せられ、写真と指紋をとられた。その後、囚人役の人びとは、囚人服を着せられ、私物をもつことも許されず、その模擬の刑務所に入れられて、実名ではなく番号で呼ばれた。しかも彼らは格子窓から常に見張られ、手紙を書くにも、トイレに行くにもすべて看守の許可を必要とした。一方、看守役の人びとは、制服と警棒、笛、手錠、監房と門のキーが与えられ、鏡面になったサングラスで匿名性を保持し、八時間交代の勤務をするようにいわれたのである。看守の役割は囚人を管理することだけであった。この実験の結果は、実験者さえも驚くべきものであり、予定を変更して六日で中止せざるをえなくなった。すなわち、被験者たちの人格は二日目には早くも変化が起こり始め、囚人は服従的で従順に、看守は支配的にまた残忍な行動をとるように変化していったという。
たとえば、看守はいつのまにか交替の時には必ず囚人を全員並ばせ、反抗的な囚人をからかったりするようになっていった。また囚人は、自発的な行動をやめ、指示に反応するだけになっていった。つまり被験者は、惨めな囚人の役割をわずか一週間足らずのあいだ、演ずるだけで、それまで築いてきたその人のアイデンティティを崩壊させ、服従的で卑屈な人格を築いていった。また同じわずかの期間、看守の役割をすることが、その人の人格を権威的で支配的なものへと導いていったのである。
この実験が示唆していることとして、たとえ最初は崇高な目的でメンバーに加わったどんなに善良な人びとであったとしても、その集団のメンバーでいるうちに、自らの内面的な変化を引き起こしてしまうと予想されることである。

同書P140-141より。
いわゆるスタンフォード監獄実験。
この実験は行動や所属集団がいかに簡単に人の内面を変化させてしまうかということを示しています。

人の内面と行動は情報と状況に支配され、人はそれに対して無自覚

ザ・ウェーブ

一九六九年、ある高校教師が、歴史の授業でナチス支配下のドイツにおける全体主義を教えようとしていた。彼は講義で映画を見せて全体主義を説明したが、学生たちは、ドイツの民衆がなぜヒトラーについていったのか、なぜだれもナチの行動を批判できなかったのかが、まったく理解できないという様子であった。そこで、その高校教師はある試みをおこなった。
教師は、生徒に「規律と力を作り出せることを証明しよう」と提案し、姿勢、持ち物から、先生に対する呼び方、質問の仕方や答え方などについて細かく規律をつくり、軽いゲームのつもりで守ってみるように指導した。はじめ教師は嫌がられるのではないかと懸念したが、ふだん自由な雰囲気で教育されてきた生徒たちは、嫌がるどころか競争心をもって規則に従おうとした。不気味なことに、生徒たちは規則を覚えるたびに、つぎの規則を欲してゆき、授業終了のベルがなり終わっても、彼らはその規則を続けようとした。もはやゲームではなかった。
つぎの歴史の授業においてもそれは続いていた。教師はとても驚いたが、そこでやめようとはいわずに、逆に彼は「規律の他に、共通の目的のためにはたらく共同体に参加しなくてはならない、この運動を『ザ・ウェーブ』とする」と主張した。さらに「この運動の信念に従って行動することが力を得る」と主張した。生徒たちは、運動の旗印を作り、運動員章をつくり、この運動はクラス外の人びとにまでものすごい勢いで広がっていった。
この教師の教科学習の試みは、とどまることを知らず、数日間で全校の生徒たちに浸透していった。ナチスの運動とそっくりであった。彼らは、自分たちの自由と交換に、メンバー間の平等と「ザ・ウェーブ」グループに入っていない人に対する優越を得て、差別をし、攻撃をした。また彼らは、この運動はちょっとしたゲームであり、いつでもやめられるつもりでいた。しかし、やめようという者はほとんどいなくなり、そうした者は密告され、制裁を受けることになっていった。
結局、この歴史教師は、メンバー全員を講堂に集め、テレビ画面を用意し、もう一度、ヒトラーの映画を見せ、自分たちのやっていることがナチスと同じであったことを示し、だれでもが第二のナチになって歴史が繰り返される危険性のあることを説明した。生徒たちは愕然として目が覚め、軍隊調の姿勢をくずし、軍旗をすてた。
このように現実の場面で、高校教師という他者が大勢の高校生のこころと行動を操作してしまった。そして高校生自身は、そのことに操作者自身から告知されるまで気づかなかった。これが永続的マインド・コントロールなのである。

同書P144-145より。
この歴史教師の「教科学習の試み」は重要なことを示唆しています。
人の内面と行動が情報と状況に簡単に支配されてしまうということと、内面と行動を操作されている人がその操作自体に無自覚ということ。
情報と状況により人は自覚しないうちに容易に思想改造されてしまうのです。

現代教育とファジー耐性のなさ

マインド・コントロールの存在やその強力さを信じられない人は、戦前、戦中の日本社会を考えてもらいたい。多くの国民が軍国主義のもとにマインド・コントロールされていた、とはいえないであろうか。人びとは、与えられた情報だけを信じ、「自分で考えた」つもりで「戦うしかない」という結論を出し、「鬼畜米英」、「一億火の玉」などをスローガンとしてかかげたものだ。真剣にかつ真執に「考え」「行動した」結果がそうである。ある組織のなかで、そうならないとどうしていえるだろう。
破壊的カルトは、これと同じようなことをしようとしている。彼らがメンバーに与えている「自由」は、マインド・コントロールによって見せている「幻想」である。つまり、破壊的カルトは、全体主義思想による支配を、現代の自由主義社会の真ん中で、こっそりとおこなおうとしている。
約六〇年も前のことであるが、フロムという社会心理学者は、精神分析学的視点に立って、そうした時代の人びとを分析した。その時代とは、いうまでもなく全体主義が台頭していた頃のことである。この分析は、現代でも通用する。
彼によると、人間は根元的に不安をいだいている。現代人は共通して、その不安を克服しようとして、自らの自由を放棄し、強力な権威者に絶対的支配を受けたいと願う傾向にあるという。その傾向は、「権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)」と呼ばれる性格構造としてとらえられ、非常に多くの研究がなされた。
権威主義的パーソナリティの特徴は、強者への服従、弱者への攻撃、白か黒かといったステレオタイプ的判断、因習主義などの特徴を共通してもつとされた。その後の多くの研究で、これらに共通の特徴は「思考の固さ(rigidity)」や「あいまいな状況に対する寛容性の低さ(ambiguity tolerance)」としてまとめられた。これらは、状況が変わっても、なかなか思考パターンを変えようとしなかったり、判断が明白につきにくい状況におかれると、不安感や焦燥感にかられやすいといった心理学的特徴といえる。
「思考の固さ」と「あいまいな状況に対する寛容性の低さ」とは、本質的には同じ問題をあつかっていると思われる。現在、それらについての心理学研究は、相対的な個人差の研究に重点がおかれている。しかし、私は現代人全体が一般的にあいまいさ、つまりファジーな状況に対する耐性が低く、思考が固い傾向にあり、この特徴が、全体主義的思考の本質であり、破壊的カルトの思考パターンでもあると考えている。
現代の教育システムは、ファジーを認めないスタイルになってはいないだろうか。すべての問題に必ず「正しい」とする解答があり、教育はそれを探させ、記憶させることに偏っている。この傾向が、歴史、詩や小説といった文学についてまでもつきまとっている。そうした教育を受けてきたせいだろうか、大学生になっても、単純で断定的な講義や権威主義的な教授を、よいと単純に評価するものが少なくない。あるいは人の複雑な性格を血液型のわずか四タイプで分類したり、誕生月などで単純に自分の運勢を理解しようとする学生もいる。
また、神秘主義と科学(自然科学)の区別がつかない学生が多いとも指摘される。これも、思考の固さと関係があるのかもしれない。人間や自然界の謎を前に、はっきりした明白な解答をすぐにも求めようとしたならば、現代の科学にはまだまだ未解決な問題が多いことはいうまでもない・しかし、それをすぐさま「科学の限界」ととらえ、霊界や超能力といった神秘的な解答で納得してしまうのはいかがなものであろう。そうした神秘的で単純な解答を、人びとにもたらしている源は、現代ではマス・メディアや出版界に代表されよう。科学とは何かについて、各人がもう一度理解しようと試みる必要がある。

同書P232-234より。
社会心理学的研究の成果は、情報と状況を制御することで、高い可能性で人を(操作された)「自発的意思」で望みの結論と行動に到達するように誘導できることを示しています。
そういう心理操作の手法は悪用されうるものであり、現実にカルトや悪徳商法などに利用されています。
そういう社会心理学的技術の悪用に対抗するにはどうすれば良いでしょうか。
私はその方法は多くの人が自己防衛のために実学としての社会心理学的知識を身につけることだと思います。
そういう知識を身につけること自体が社会心理学的技術を用いた操作の試みに対する防壁になるからです。

*1:兵法書六韜には、相手を篭絡したりするためのその手の策略が結構のっていたりします