無責任であることに無自覚な「普通の人」
「普通の人」は反差別・反貧困・反歴史修正主義のことをサヨクと呼びます。
そしてサヨクに対して「アドバイス」をしたり「『アドバイス』通りに行動するなら助力しないでもない」と言ったりすることはあっても通常それらの問題に対して自発的には行動したがりません。「普通の人」自身が差別・貧困・歴史修正主義を悪いことと認識しているのにも関わらずです。
差別・貧困・歴史修正主義は思想の左右の問題ではありません。「普通の人」も所属する「私たちの社会」の問題です。
つまり「普通の人」はそれらの問題に対し自らが所属する社会の当事者として良識に基づいて行動することをサヨクと呼び、「普通の人」自身から切断しているのです。
「普通の人」はそのようにして「私たちの社会」の問題に対応する責任をサヨクに丸投げし、「私たちの社会」の当事者として振る舞う責任から逃避しているわけです。その方が楽ですもんね。
これは実に無責任な振る舞いなのですが「普通の人」はそのことに無自覚です。それどころか「私たちの社会」の当事者として良識に基づいて行動することを求められることを理不尽な要求と受け取りがちです。
このことは「普通の人」が自らが所属する「私たちの社会」に対する当事者意識を欠いていることを示しています。自らが所属する社会の構成員としての自覚を欠いていると言ってもいいですね。民主主義社会の構成員としてまるで成熟していない。
このような「普通の人」は差別・貧困・歴史修正主義の問題に対して自発的に行動したがらない一方、サヨクに対して「差別主義者や歴史修正主義者を排除するな。宥めろ。大同団結しろ。味方にしろ」と「説教」するのは大好きだったりします。そういう姿勢は反差別・反貧困・反歴史修正主義を「サヨクのやること」として「普通の人」自身が当事者意識を持って為すべきことから排除することにより成立しています。